「なにものでもない」ということ、あるいは、学生生活の終わりを前にして

卒業論文を書き終えた。20年近くに及んだ学生生活が、いま、終わろうとしている。
計り知れないような自由と、もうひとつ、広い世界との断絶を恐れる気持ちを、両手いっぱいに抱いている。

カントの言葉を引用したい。「啓蒙とは何か」の中の一節、理性をいかに使うかについて書かれた箇所だ。

彼は、理性を私的に使うことを、「ある委託された市民としての地位もしくは官職において、自分に許される理性使用のことである(27頁)」と定義する。
逆に、その公的使用のことは、「ある人が読者世界の全公衆を前にして学者(Gelehrter)として理性を使用すること(27頁)」という。

少しことばを補うと、「学者」とは、どこかの研究機関に勤めている者のことではない。この「Gelehrter」ということばにはさまざまな解釈があるので、ひとまず措くことにする。「読者世界の全公衆を前にして」というところに、注目したい。
さて、常識的に考えると、「私」と「公」が逆転している。「学生」と「社会人」ということばの対比が示すように、なんらかの地位に就いて働くことは、「社会」=おおやけの一員として機能することと同義だと考えられている。しかしカントは、それを「私的」だというのだ。それに対して、どこにいるかわからない「読者世界の全公衆」を想定して、ものをいうことが、「公的」らしい。「大学の勉強は社会で役に立たない」とは、よく聞くことばだ。きっとそうなのだろうと思う。もっと言おう。「社会」というか、人間関係にも、アルバイトにも、きっと仕事にも、「勉強」以外のなににも役立たない。それでもカントは、学者として発言することを、「公的」だという。
大学に入ったばかりのときにこれを読んだが、理解はできたものの、共感はできなかった。

卒業論文を書いている間じゅう、「これを書き上げたら、自分のために本を読もう」と思っていた。自分が信じた論を補強するために古典を引っ張り出す。それは骨が折れる営みだった。はやく解放されて、好きな本を読んで心安らぎたい。心からそう思った。

もしくは、はやく働きたいと、ずっと思っていた。とくに、あの地震のあとから。自分がなにものでもないから、誰の役にも立てない。ただ消費を行うことによってしか社会とかかわれないことを、もどかしく思った。
大学を卒業して、ようやく働くことになる。いわゆる社会的地位、社会的責任みたいなものを担うことになる。すごく、すごく喜ばしいことだ。胸がはちきれそうになる。そうして、私は「なにものか」になる。

待ちわびていたその日がきたとき、見えたのはまったく違う景色だった。

卒業論文を書き上げたあと(突っ込みどころも論理の飛躍もあり、とても完成したものとはいえないのだが)、ふと、取り残されるような感覚に襲われた。これから私は、「大学の勉強」から離れることになる。もう、ここに帰ってこられないのかもしれない。私はそれがこわくなった。

あるとき、ゼミで教授が「論文は全世界に向けて書くものです」と話した。そのときは文体や用語の話だと思って聞き流したが、書き進めるうちに、もっと深い意味に気がついた。「全世界に向けて書く」とは、(当たり前だが)誰が読んでもよい、ということだ。普遍的な次元でものをいいなさい、と、私たちはいわれていた。真理をみつけるために、私たちは学ばなければいけなかった。

カントのいいたいことが、ようやくわかった。
たしかに学生は、「なにものでもない」。そして、「なにものでもない」ことを前提に、世界に向けて話しかけることができる。私の読んできた古典もそうだ。彼らは、「イギリスのなんとか大学の教授の立場から市民に向けて」ものをいっているわけではない。彼らは「人間」として、「人間」に対して、世界のことを話していた。

「自分のために本を読みたい」と書いた。気分がらくになる。仕事がはかどる。部屋がかたづく。そういう本を読みたかった。ただ、その本のページをめくった瞬間、私は「人間」以上の「なにものか」になっている。「つらい人」か「仕事をはかどらせたい人」か「部屋をかたづけたい人」。自分の具体的な属性のひとつをひきのばすと、そういう人物像があらわれる。「なにものか」になる、というのは、そういうことだ。特定の文脈に縛られ、特定の偏向をもって、実務的な利害を伴って、世の中に迎え入れられる。

自分が、「人間一般」でなくなるのではないか。卒業論文を出し終わったあとに、虚無感とともにこみあげた不安は、こう言語化できるように思う。
もう論文を書かなくていい。これが許された瞬間に噴き上げたのは、強烈なエゴだった。ただ自分がしたいことをしようと思った。その次の瞬間に、古典が本棚の飾りに堕するのは目に見えた。「なにものか」としての自分をかわいがればかわいがるだけ、私は世界の真理から遠ざかっていくような気がした。

「学生」と「社会人」ということばの区別は嫌いだ。学生が社会とかかわっていないわけがないし、その定義じたいがあいまいなものだからだ。でも、学生が学生を名乗る瞬間のことを思うと、これが特別な身分であることを感じる。ただの人間、それ以上でもそれ以下でもない存在として、真理を探しにいくのが許されている、もしくは望まれている身分。これが学生だ。
この期間が人生の何分の一かを占めるのに、意味を感じる人も感じない人もいるだろう。そもそも、高等教育を、希望する就職口への切符だと考える人もいれば、それが当たり前だから、と大学にきた人もいるだろう。
ただ、私は、学生の本質は、私的・個人的な事情をなにもかも捨象して、ものを語れることにあると思う。

「学生のうちにしておいたほうがよいこと」を人に聞くと、「遊んでおけ」とか「勉強しておけ」とか「旅行しておけ」とか「インターンしておけ」とか「会いたい人に会っておけ」とか、それはもう、人それぞれの答えがもらえる。それらはみなどこか真実を含んでいて、どこかまちがっている。
私はもう学生をやめるが、まだ、「なにものでもない」。なにものでもない私から、なにものでもないいま/未来の学生たちにひとこと話してよいとすれば、こういいたいと思う。

「学生」を名乗るとき、あなたは「なにものでもない」。「なにものか」になる前に、この身分でできることを、四年でも五年でも、学校にいるあいだにゆっくり考えるべきだ。そういう「役に立たない」ことを考えてきた人たちはたくさんいて、本を開けばすぐに会える。

私はまじめな学生ではなかったが、学生生活でなにか、ほんとう、を見つけたいと思っていた。いま、卒業を前にして、これだけがほんとうだな、と思う。

ちなみに、カントは、だれでも学者になれる、と話している。いくら具体的な役職に就いていようと、学者としてものを考えることは可能だ。もちろん、そのための努力は必要だろう。しかし、私たちは生きている限り、世界の一員であることはまちがいない。
幸いなことに、私は本を扱う仕事に就く。「なにものでもない」自分のいうことをたまには信じてやり、「ほんとう」に近い本を作れればいい、と思う。