自分の自分による自分のための買い物・若さ

最近買い物づいております。毎月まとまったお金を稼いでいて、生活費を引いてもそれなりの額が残るので、ちょっと貯金に回したら、純粋に自分のために買い物をしている。服とか入浴剤とかちょっとよい歯ブラシとかランニングシューズとか。

峰なゆか氏がAV女優を引退したのが24歳の時だと知って衝撃を受けたのだった。別に彼女がAVをやめた理由は年齢なんかじゃないと思うけれど、まず彼女が24歳までのあいだに熟女の役を演じていたことに驚き、次に24歳というのはひとつの職業を引退する年齢になりうることや、その歳までのキャリアが何年経っても「元○○」のように使われることに少し恐ろしくなる思いがした。AV女優は特殊な例なのかもしれないけれど、逆に女のおんな性に依る職業だからよけいに切実な感じがした。私は23歳である。

これまであまりそういうことをしてこなかったせいもあり、自分に投資すると、した分だけ戻ってくる感触がある。似合う服を見つけて買えば必ずほめられ、化粧用品を一色か二色買い足せば表情の幅が広がる。他者とくらべて、とか世間一般的に、ではないから書いてしまうけれど、今の自分は若さやそれ特有の美しさを享受している。

56か57歳の母と給料の使い途について話していたとき、「若いのだからたくさん服を買ったほうがいいよ」といわれた。正しいと思う。ポイントさえはずさなければ、若者は何を着てもかわいい。いつか、自分のための買い物をしても買ったぶんだけのリターンがなくなるときが来るのだろう。それはそう遠からぬ近未来なのかもしれないことを、最近思う。

でも年を取って若くなくなるのが怖いかというとそれは違って、ただ、「その時」がきたときにそれなりの自分でいたいと思うのだ。紅白歌合戦で、さまざまな年代の男女が交互に出てきて歌うのを見ながら、女は年を重ねるのが難しいな、と思った。それは出演者がいけていなかったとかではなくて、「すてきなおばさん」よりは「年齢より若くい女」ばかりが「美人」としてステージに立って、美しく歌っていたからだ。でも本当は、「若さ」だけが「美しさ」に直結しているわけではないと信じたい。

昨日は新宿の伊勢丹に行った。一階はハイブランドの鞄をたくさん取り扱うフロアで、初めて真剣にひとつひとつの店を見てうっとりした。全部美しかった。これらを買うだけの財力が実は私にはある。でも、似合わないからいいかなと思った。持って行く場所もなければきちんと大事に扱える時間もない。

ほとんど闇の中にある「美しく歳を重ねること」の条件のひとつに、あの鞄を持ってしっくりくる人間になる、というのが加わった。いつになるんだろう。たぶん、人から買ってもらえるけど自分で買える、ってのもその要素に入るなあ。プラダの靴がほしいの!

それにしてもアクセサリーは人から買ってもらったものしか使いたくないのだが、鞄と財布と靴は自分に合うものを自分の力で買いたい。実用性があるかないかの差でしょうか。