今日の昼頃に東海道本線で書いた日記

名古屋の友達と静岡(県ではなく市、というか駅)で会うことになり、高速バスを予約した。8時40分新宿発で、だいたい3時間で静岡に行くというもの。というのは私の勘違いで発時刻が8時20分だったらしい。新宿西口のバスターミナルで発狂しかけた私(ちなみにその前日もバスの時刻表を見間違えて遅刻している、本当は私は全然遅刻しない人なのに…)は10パーセントくらい残っていた理性を使って、小田急線で小田原へ出て、そこから熱海を経由して東海道線に揺られるルートを見つけた。見つけたっていうかすべてヤフーの乗り換え案内が教えてくれたのだが…。バス代はすでにクレジット決済が済んでいたために2500円の追加出費があり、というかちょうど1時間も遅刻することになり、もう気持ちの整理がつかない。

進行方向左側、つまり内陸に向いた座席に座っているために、富士山がどこまでも車窓に貼り付いて離れない。今住んでいるところを含めて私が「帰る」という表現を使うことのできるあらゆる家や町から山をのぞむことはできないので、山のある風景には違和感がある。特に富士山はでかいし、周りにほかの山がないので稜線がはっきり見えるし、白いし、形もはっきりしているしで、存在感がすごい。

太宰治が山梨にこもっていたころ、「毎日まいにち富士山と向き合っていて疲れた」みたいな感じのことを書いたと思うのだが、私もたかだか40分くらいだけど、富士山と向き合っていて疲れた。

そういえば、学生のころバスで金沢に行ったことがある。たしかルートとしては上越自動車道で新潟あたりに出てから、日本海沿いの道を金沢まで西へ下って(という動詞はどうなんだろう。そういう感覚があるんだけど)いった。右手にずっと海、左手にずっと山、という風景は自分にはなじみがなさすぎて、こういう場所で育った人と自分は、決定的にメンタリティが違うんじゃないかと勝手に思った。数少ない北陸出身の知り合いたちを思い浮かべてみたりした。自分の仮説が正しいかどうかはよくわからなかったけど。

日常的に富士山を、それもでかい姿のを、見て生活している人たちもなにか自分と異なる精神性を持つのではなかろうかと思うのだが、どうなんだろう。なにが違うのか想像もつかないけど。「長野の人は、山に見られているという意識が強いから道徳的だ」と昔どこかのおじさんが言っていたけど、そうなんだろうか。そのおじさんは同時に「山梨の人間はどうしようもない」とも言っていたな。山梨も山あるでしょ。