強姦について語るときにぼくたちが語ること

自分でもまとまりきっていない話題で、どう着地できるかわからないのですが。

レイプをめぐる言説にはうんざりさせられることが多い。そのひとつは自己責任論に依ったもので、夜道を歩くから悪いだの、露出の多い服を着るから悪いだの、そういうことを言ってはばからない者が少なからずいることには心底辟易する。好きな服を着て好きな時間に歩きたい、というまっとうな欲望が完全に無視されている。スーパーフリー事件についても、あんないかがわしい飲み会に出かける女も悪いだろう、と言いたがる人がいた。性犯罪に遭わないためには、男の子にちやほやされたいと願うことすら許されないのだろうか?
性犯罪が起きているという事実について、私は何も言うことはできない。ただ、そこにある欲望をミュートされるのは何か違うと思ってしまう。

こういう記事を読んだ。
ERROR!!

「全ての女性へ」と書かれたその記事(ある男性のmixi日記の転載らしい)は、身近に起きたレイプの話をいくつか挙げ、レイプをする男は後を絶たないことを述べ、最後に自分の身を護れるのは自分だけだと結論づけている。タクシーで帰ったり、音楽を聞いて歩くのをやめたり、こういう自衛のための行為には、それなりの機会損失(お金もかな)がつきまとう。不便を感じることもある。しかし彼は、それでも自衛行動を勧め、こう断言する。

「あなたがレイプされる価値。

その後の人生、

ほんまによく考えてみてくれ!!!!」

きっと親切心から書かれた言葉に違いはないのだと思う。しかし、こういう身勝手な良心こそが女性を追い詰めていくような気がする。

レイプされたら、その後の人生はもう真っ暗なんだろうか。

性行為を経験したことのある女性のおそらく大部分は、それに付きまとう怖さのようなものを知っているのではないかと思う。妊娠や感染症のリスクや物理的な痛みだけではない。自分よりも大きくて重くて硬くて、力では必ず敵わない相手に組み伏せられる行為というのは、いくら本能や承認欲求を満たすようなものであれ、相手への信頼や相手からの思いやりが少しでも崩れた瞬間に、拷問のようなものになるんじゃないか。それに近い経験をしたことがある人はそう少なくないはずだ。だから、女性は、レイプの恐ろしさを容易に想像できる。おそらく、先の記事を書いた男性なんかよりもずっと。

彼に被害者の痛みに寄り添うつもりがないのは、記事を一読すれば想像できるところだ。彼が主張したいのは、「こういうかわいそうな事例があるから、他の残された女性はこういう風にならないために自己防衛してほしい」ということだからだ。とすれば、彼は一体レイプのなにに問題意識を持っているのだろうか?

端的に、彼は「レイプは女性の価値や、その後の人生を汚すもの」と考えているのだろう。彼はこうも書いている。

俺が犯罪者なら、

女の子は、裸に札束を着ていうようにしか見えません。

皆さんも自覚してください。

あなたの体は価値があります。

女なだけで入れれます。

ヤレマス。

100万持って夜道歩くの恐くないですか?

1000万持ってウォークマン聞きながら歩きますか?

一億持って泥酔して電車に乗りますか?

他人の体や貞操をお金に例えることには生理的嫌悪感を覚えてしまうが、それは彼の文才のなさによるものだろう。女性の身体に価値を認めてくれているのはありがたい、というか悪い気はしない。しかし、その「札束」は一度のレイプで根こそぎ奪い去られるものなんだろうか?

ここで、「そもそもレイプを重大な犯罪だと考えるからいけない、私はレイプに遭っても落ち込まない」と主張するフェミニズムの流れがあることも紹介しておきたい。私はそうは思わないが、たしかに、それも一理ある。というか、彼女らは過激なパフォーマンスをすることで、その思想の中核を伝えたかったのかもしれない。

つまり、当事者の痛みを引き受けようともせずに、勝手に「レイプされた女性」の価値を決めないでほしいのだ。
確かにレイプは卑劣な犯罪で、被害に遭った人は言いようもない辛さを感じるに違いない。そんなことは言われなくとも想像できる。でも、当事者を社会の中で辛くさせるのは、他でもない、「自分の人生をもっと大事にして!」と忠告してくれるあなただよ。

起きたことは変えられない。でも、それを予防するための言葉にしばしば見えないとげが含まれていて、もうそれを経験してしまった人を何度も刺す。そのことと、これから起きるかもしれない犯罪を最小限に食い止めるべきであるということは、絶対に分けて考えなければいけないことだ。

きっとレイプ犯が地上からいなくなることはない。とすれば、まず、あの記事のようなことを言う人間が根絶されればよいと思う。