「今日が楽しかったから明日からまたがんばれる」

タイトルのような思考回路がいっさいない。週末が平日の活力源になるとか、そういうふうにものを思えないのである。「現実逃避」という感覚もない。自分の人生は全部の出来事がフラットにある感じがする。

大学1年生の春にウズベキスタンに行った。理由は二つあって、ひとつにはアルバイトばかりして貯金が40万円あったのと、もうひとつにはとにかくどこか遠くへ行きたかった。大学に入ったはいいが、自分の居場所みたいなものを見つけられずに1年が過ぎ、ママチャリを漕ぐ以外楽しいこともなく、たまに好きな本を読み、そういう毎日を過ごすのがもういやになっていた。「自分探しの旅」はバカみたいだと思っていたが、もう、自分が追いつけなくなるくらい自分を遠くの知らない場所にやってしまいたかった。ちょうど、『ゴーストワールド』のラストシーンみたいに。大学の留学センターで短期留学プログラムを見ていたら、まったく知らない国の名前を見つけた。ああウズベキスタンまで行けばさすがに自分は自分を忘れられるんじゃないかと思った。それで受付開始時刻ちょうどに申し込みをした。

成田空港に集合した時点で、「自分から逃げたい」なんていうのは「自分探し」と同じくらいバカな願いだったことにすぐ気づいた。日本人学生が十数名、2週間を未知の国で過ごす。人間関係が生まれないわけがない。

道徳の授業みたいな話だ。互いが互いに本気でキレたり、それを傍目に見て本気でへこんだりしたけれど、ウズベキスタンで過ごした日々は最高に良いものだった。

大好きで大好きでたまらない歌手がいる。残念なことに、私が彼を知ったとき、既に彼は音楽活動をほとんどしていなかった(言論活動はしていたが)。私の聞ける彼の楽曲はもう10年以上昔の音源だけで、いまこんなに好きなのに、タイムラグがあってそれが絶対に埋まらないであろうことが悲しくて仕方なかった。

その彼が急に復活ライブをすると言い始めた。

チケットが当たった。そこから、にわかに日常が狂いだした。平衡感覚みたいなものがおかしくなり始めたのだ。すべての時間がライブに向かって流れていて、ライブが終わったあとの想像ができなかった。テストの予定なんかはきちんとあるのに。ライブまでの時間は「つぶす」べきものでしかなかった。

当日。

会場から出て駅まで歩く。暗黒にしか見えなかった「ライブ後」の時間が流れはじめる。

でも、ライブの途中で人としゃべったり恋をしたりすることも、主体的にものを考えて実行することも、できないことに気づいてしまった。うれしいこともかなしいことも本当は全部、ライブが終わったあとの平坦な日常の中にあるのかもしれないと思った。そんなもんだ。ライブの2時間半は、神様がふっと降らせた贈り物だったような気がする。

小学3年生くらいだったと思うが、いきなり、毎朝起きて学校に行くことを奇妙に感じた。というか、面倒になった。ある行為が面倒になると、その行為がいつ終わるのか考えるのが人間だろう。小学校を卒業したらもうおしまいかな、と思ったが、いや、数秒後には中学と高校と高等教育機関と会社のことなんかを考えていた。自分はまだ9歳かそこらでこの生活に飽きてしまったが、定年までこんなことをしなければいけないのか。

絶望よりも諦念が湧いた。

傍から見れば「いろいろあった」のかもしれないが、私は私の人生をドラマチックだとは思えない。すべての出来事が日常の延長線上にあって、現実しかなくて、だから、現実逃避もなければ「今日が楽しかったから明日からまたがんばれる」とも思えない。