ピアノを弾いて自分だけの秘密の庭をみつけた話

大学3年の冬までピアノを習っていた。クリスマスの間近に、チェロを弾く友人に誘われて小さなチャリティコンサートに出て以来、もうほとんど鍵盤を叩いていない。十数年続けた楽器ではあるが、練習に身を入れた経験はない。謙遜でもなんでもなく、客観的に、ちょっと弾けるくらいだと思う。

それまでは断続的にでも触っていたピアノをぱったりやめてしまったのに、さしたる理由はない。家のピアノの音程が狂ってきたとか、帰宅が遅くなったとか、そういうことが重なった。まあまた余裕があれば弾きたい。

私がついていた先生には私の母も教わっていて、今までずっと続いている。毎年、晩秋に、生徒と家族だけの小さな発表会が開かれる。それがこの週末で、2年ぶりに見に行ってきた。

生徒は幼稚園から小学校くらいの年代の子が多い。その上は、中学生ひとり、高校生ひとり、飛んで大人が数名。だいたいいつも出演者はこういう構成だ。

小さい子たちは、単純な楽譜を、間違えないように、丁寧に丁寧に弾く。本当にけなげでかわいい。ただ、彼らはは入れ替わりが激しい。去年いた子が今年はいない、ということのほうが多い。そういうのは素直にさみしく感じる。もう少し、といってもあと10年以上かかるかもしれないけれど、続けると全然違う世界がみえるから。

譜面どおりに鍵盤を叩き続けていくと、ある地点で、ひとことで言えば、演奏する者としての自我が生まれる。

ピアノ曲の楽譜は、1枚しかない。決まったものしかない。流通がどうこうとかではなくて、作曲した人が書いたものしかない。それにはどのキーを押せとかどこから強く弾けとか書いてある。

でも、あるとき、というか私は遅くて20歳を越えたくらいの頃だったけれど、楽譜通りに弾いただけじゃ、それで出る音は音楽じゃないんだな、というのがわかった。

ひとつの曲を聞くと、なにかしら思うことはある。悲しげな曲だなとか。それを、自分が弾くときに、きちんと表現できないかなと、思うようになるのである。

最初はかなり単純な感想しか持たなくても、練習が進むにつれて、この部分はもっとドラマチックに弾いたほうがいいかなとか、もしかしてこのつながりではこの音を目立たせたほうがいいかなとか、細やかな視点が生まれる。だいたい指がうまく動かないから練習する。そうするとまた別なふうに曲を解釈できる。もう死んでいる作曲者が、手がかりとして残した楽譜を読んで、自分が理想とする演奏を探して、近づいていく。

その解釈とか練習とやらが演奏にどうやって反映されるかというと、物理的な基準でいえば、この音符が楽譜より0.1秒長いねとか、ここの音量が大きいねとか、それくらいだ。でも、聞けば、明らかに音色が違う。そうやって練習された曲を聞くと、たとえ途中でミスタッチがあったり止まったりしても、いい演奏だなと思う。たぶんこういうのは誰が聞いてもわかる。言語化されないだけだ。

中学生とか高校生の子の演奏を聞いていると、そういう感覚をつかんでいく過程がちょっとわかったりする。これくらいの歳になると続けている子が多いわけで、一年か二年に一度でも、彼らの演奏を定期的に聞く機会があると、ちょっとずつ変わっているようすが伝わるのだ。ああ一年間、ピアノと苦闘したんだなとか、もっと音楽好きになったんだなとか、うまいなとか、思う。



先生の本業は歌で、こちらも、少ないながらも、何年もレッスンに通っている生徒さんがいる。彼らも発表会に参加して、歌を披露する。みんな大人の女性で、30代くらいの人も70代くらいの人もいて、天性のものを感じさせる人もいれば、緊張に声が震える人もいる。声が聞こえるぶん、表情が見えるぶん、心情がわかる気がする。

皆何十年か生きているから、それぞれ個人の事情とか悩みとかどうしようもないこととか、あるんだろうなあと思う。それは私が勝手に察したことでしかないけれど、私が20年ちょっと生きていて、少しずつ世の中のこととか人の心の動きとかが、わかるというより、身に覚えがあるようになっていったから、あながち間違っていない直感なんじゃないか。

ともかく、日常の中でそれぞれの事情があって、そのうちの何時間か、彼女らは歌っている。それは本当に尊いことに思える。



それで、私はこんなコメンテーターみたいなことやってていいの、とか思ってしまった。つまりプレイヤーに戻ってもいいんじゃないかな、と。

15年以上に及ぶピアノ人生で、最も充実していたのは、やっぱり「音楽」というものが一番わかっていた最晩年だった。先生と、ショパンドビュッシーが、豊かな世界への扉を開いて、手招きしていた。すっごいきれいな庭だった。

でも、あの世界に戻りたくても、どっぷりとは帰れない事情というものがある。それはまあ、他のこととの時間のやりくりが主なわけだが、俗世の些事は積み重なると大きく、日々の仕事にも一人暮らしにも慣れない私には、余裕を与えてくれない。発表会を見て以来、気を緩めると涙がこぼれそうなくらい、悲しい。

まあ、ああいう庭が実在することを知っているだけでも、いつでも遊びに行っていい場所があるようで、それは自分のささやかな人生の中の、宝物のひとつだと思う。音楽に触れるすべての人にはこの庭が待っていてくれる。

ちなみに母の演奏はミスタッチの連続だった。歳を取るとミスが怖くてがちがちに緊張するからだそうで、その気持ちはよくわかる。私もその心境にどんどん近付いていたから。