正しく思考停止できる?

猫を飼いたい。今はペット不可のマンション住まいで、しかもアレルギー持ちだから現実的ではないが、いずれはどうにか猫と暮らせたらいいと思っている。

実家の近所のカフェに「猫掲示板」みたいなものがあって、生まれた子猫や捨て猫をお譲りします、予防接種はすんでいます、去勢はしていません、電話は何番です、というような紙がいつも何枚か貼ってある。猫を飼うときはぜひここからもらい受けたい。シンプルに、需要と供給がすぐ近くのところで一致している感じがする。

今月から取り始めた新聞にペットショップの広告が載っていて、セールだそうで、柴犬や雑種の子犬が1万円とか、ちょっと信じられない価格で動物が売られているようだった。

ペットショップの広告は毒々しくてできれば見たくない。赤ちゃん動物の写真はもちろんかわいいが、これが売れ残って1年したらどうなるか、そういうことを考えてしまってよくない。売れ残った商品は「在庫」ということになるわけだが、この在庫を保持するのにはとてつもなく金と手間がかかる。ごはんをあげて散歩に行ってトイレの世話をして風呂に入れて、でもそんなふうにして大人になった動物を私は見たことがない。少なくともペットショップの店頭に成犬も成猫もいない。子犬も子猫もみんな売れていったの?

話は変わるが、昨年の7月のめちゃくちゃ蒸し暑い日に、夜行バスに乗って岩手県大槌町に行った。泥が逆流してぬかるんでしまった川の掃除をするために。あの地震のことがうまく整理できなくて、でも自分も誰か何かの役に立ちたくて、頭の中がぐちゃぐちゃのまま行った。行こうと決めてからは、「被災地に行く理由」を言語化したくて必死だった。それは多少の好奇心とか、いま行ったら人生経験になるかも、みたいなよこしまな思いがどうしてもあって、それになにか、妥当なものを上塗りしたかったからでもある。

大槌町はめちゃくちゃになっていて、こんな状況はおかしくて間違っていると思った。あとは、東北とは思えないくらい暑くて、私は熱中症で倒れた。

東京に帰ったら自動的に「被災地に行った人間」になれて、別にそれを喧伝したりはしなかったが、ともかく自分は被災地に足を運んで、被害の実態を目の当たりにして、多少なりとも現地の方のお役に立つような肉体労働をやったのだ、という事実は生まれた。

ペットの広告を見たり、大槌でのことをを思い出たりして、少し何かひっかかる。

私はなにも間違ったことはしていない。というか、ペットショップで子猫を買わずに人から譲り受けるのも、大槌町で泥だらけの川を掃除したのも、むしろどちらかといえば「正しい」に近い選択肢だと思う。大槌に行ったことを反省とか後悔しているわけではないし、「自分ひとりが正しい行動をしているとしても、周縁に広がる社会に視座を移さなければ意味がない」とか言いたいわけでもない。

ある問題に対して「正しい」・「どちらかといえば正しい」行動を起こすと、その問題での自分の立場がちょっと特権的になる気がする。行動って、してしまえばその事実がいつまでも残る。もちろん初動にはエネルギーがいるが、うだうだ考え続けるより、周囲にも自分にもインパクトを与える。首からメダルを下げているような感じ。

というより、完全に、私はもう苦しいことを考えたくなくて、ボランティアをしたり猫はもらおうと誓ったりしているような気がするのだ。ややこしいことは私じゃない人に考えてもらって、私は粛々と手を動かそう、と。それじゃいけない気がしてブログを書いている。

じゃあ、ペット業界に私が提言できることがあるの?とか、継続的に被災地支援ができるの?とか、そういうのはまったくない。今後もないと思う。揺るぎない確信を得てから行動しようなんて言っていたら、なにもしないまま死ぬことになるだろう。そうしたら、どうして思考停止しちゃいけないと思うんだろう。「正しさ」にもどこかしらもろさがあるからかもしれない。もろいものが壊れたときに、誰のせいにもしたくないからかな、と、ぼんやりながら今は考えている。