自殺という誘惑

本気で死のうと思ったことは一度もないが、自殺でもしてやろうかなと思ったことは一度だけある。自分より絶対的に強い、力のある、影響力のある立場の人から裏切られたときのことだ。

一年前、大学四年生だった私は内定取り消し(のようなもの)を食らっていた。それはあまりに急で理不尽な話だったように記憶している。

しかし、特に現実に悲観することもなかった。こうなってしまったものは仕方がないし、卒業したあとぷらぷらしながら就職先を見つければいいかと考えていた。ただ、それは自分の人生についての話だ。会社に対しては、怒りがおさまらなかった。

私はその会社でインターンをしていた。小さな若い会社であったため、人手が足りず、私はあるひとつの事業の中核的な工程を、ほぼすべて任されることになった。やりがいがあり楽しい仕事だったが、学生が片手間にできるような仕事ではなく、よく取引先に迷惑をかけたのも事実だ。大卒後、この会社に入ったら、ちゃんとこの仕事に向き合う時間がとれる。それを心の支えにしながら、どうにか学業とインターンを両立させて、無事卒論を提出した。そこで、社長から「会社にお金がないから月に5万円しか払えません」と宣告されたのだ。

「5万円じゃ食っていけないと思うから、勤務体系をフルタイムにしないようにして、よそでアルバイトしていいよ」

ふざけんな。全人格で仕事に携われないのがつらかったのに。当然ながら私はインターンを辞職することになり、私の受け持っていた事業も終了することになった。「この不採算事業はあなたの成長のために続けていました」という言葉つきで。

どこか公的な機関に申告するだけでは足りない、と思った。できるだけ多くの人に、このひどい仕打ちを知らせて、この社長の人生を、「内定を取り消された」以上に狂わせたかった。

それで、「遺書をテレビ局(と朝日新聞)あたりに送って自殺する」というのは、相当魅力的な手段だったわけである。もちろん、愛する人や愛してくれる人がいるし、私は私のことが好きだし、自分の人生も好きだしで自殺なんかしなかったわけで、のちに就職先も決まって貯金をして一人暮らしをはじめて、今こうしてブログを書いているのが現実世界でのできごとだ。しかし、たまに、パラレルワールドを想像してしまうのだ。ものすごくセンセーショナルに私のことが報道されて、社長がものすごく困っておたおたして、社会的に死ぬ世界を。

顧問の恒常的な体罰を苦にしてバスケットボール部の主将が自殺する、という事件があった。ただ、その顧問を「いい先生だ、間違っていない」と語る人も多いという。

私が所属していた部活の顧問もかっとなると部員の耳を引っ張ったり蹴りを入れたりするような人で、しかし私はその人が大好きだった。「ストックホルム症候群だ」とか「DV被害者の思考回路だ」とか言われたらそれまでだが、生徒思いで、信頼できる先生だった。少なくとも、かっとなるポイントは、理にかなっていた。おそらく出世だったのだろう、高校の系列に新しくできた大学へ異動になって、部員みんなで泣いた。

妹が通っていた高校で、生徒と親の訴えによって、暴力を振るっていた教師が退職させられたことがあった。その先生もやっぱり生徒思いの熱血漢で、学校を辞めてから、ぬけがらのようになっていると聞いた。「辞職に追い込んだのは間違いだった」という人も、やっぱり結構いるらしい。

だから、こういう話を聞くと、複雑な気持ちになる。私たちは顧問の暴力を黙って受け入れていたし、妹の高校では高校の上層部に訴えた。どちらも完全なる正解でも、完全なる間違いでもない。

一人の人間に「人格者」と「暴力的」という二つの人格が宿ることはきっと珍しくない。だから、その人間に対する徹底した受容も排除も、どこかわだかまりを残してしまうのだろう。

先の事件は、日を追うごとに、「その教師がいかに暴力教師だったか」みたいなことが明らかになり、ニュースが量産されている。それは被害者が遺書を残して自殺したからだ。高校側は暴力を否認していたらしいと聞くし、彼が死んだから、はじめて明るみに出されたようなものだろう。

どうして報道が加熱し続けているかというと、ひとつには野次馬根性もあるだろうけれど、「この事件は氷山の一角だ」と考えている人が多いからだと思う。詳報を何度も伝えることで、全国の学校で起きている体罰・暴力にかかわる人に、「これは人が自殺するくらいまずいことなんだ」と気づいてほしい、という思いがあるから、こんなにたくさん記事が出るのだろう。

それが怖いのだ。

自殺した彼に、顧問の体罰が大きく報道されてほしいという願いがあったかはわからない。しかし、事実として、現実はそのようになってしまった。日常、特に組織の中でひんぱんに起こり得る問題に対して、死をもって抗議するのは、やっぱり有効なのだなと感じる。特に若い世代が死んだりしたら。

人間は生き物である限り、本質的に死を恐れながら生きている。死への恐怖は、おそらくもっとも多くの人間が共有する感情だ。だから、ひとりの人間に死を選ばせるようなできごとは相当にひどいものだと誰もが想像できる。だから、他のニュースよりも深く取材され、伝えられるのだろう。

でも自殺はよくない。とりわけ、自分が悪くないことで死ぬなんて、よくない。でも、だからこそ、加害者は純粋な加害者として衆目を集める。

いくつかの問題系がごちゃごちゃになっている。

閉じた人付き合いや集団の中で、理不尽と思われる扱いを受けたときの、異議申し立ての方法(それ自体をするかしないかも含めて)について考えているのだ。そして自殺は、手段としては、かなり魅力的な選択肢なのだ。

彼の死をきっかけに、おそらくいくつかの高校では教師による暴力がやむだろう。もう教壇に立てなくなる教師も現れるだろう。

でもこれはただの結果論だ。本当は、人の死を、有効活用してはいけないのだ。誰もこんなことに味をしめてはいけないのだ。自殺は手段ではない。ひとりの屍の上に、正義など築いては、本当はいけない。

自分が受けているひどい仕打ちについて、自殺しないと大きく取り上げられない・自殺すれば個人の苦しみを一気に社会問題化できる、といった現状は、変えがたいものだろう。だって死ぬのは誰でも怖いから。

結局、高校時代はどうすればいいのかわからなかったし、最近妹の話を聞いたり、この事件のことを知ったりしても、やっぱりどう対処するのがよいかわからない。ひとつ言えるのは、なにがあっても自ら死を選ぶようなまねをしてはいけない(この点において、私は彼を批判しなければならないのかもしれない)ことと、死ぬくらいなら、絶対にどこかに逃げ場所があるはずだから(相手に自分を殺す意図はまったくない!)、どうにか逃げなければいけないことだ。そのとき敗残者になろうと、生きていれば、その人生にはかならず価値があるから。そのあと、相手を見返すなり訴えるなり対話を求めるなり、すればよいと思うのだ。まずは逃げてもいいから。