あきらめることの効用

ゼミの後輩の卒業式に顔を出してきた。つまり私が大学を出てから一年が経ったわけで、あのとき、卒業論文を書き上げて自分が向き合いたかったことにひとまず区切りをつけてしまった喪失感と、いきなり就職先がなくなってまったくなにをすればいいかわからなくなった絶望感とを思い出すと、あんがい時間というのは静かに過ぎゆくものだ。卒論を書いたあともあらたな問題意識はいくらでも生まれるし、仕事も、わりあい簡単に見つかって、自分で自分の暮らしを営めるまでになった。

宴席で、四月からの就職が決まっている後輩ふたりが、「俺たちの就活は成功だったな」と話した。いわく、ゼミで政治哲学を学んで、自分なりに考えたことを生かせて、社会にインパクトを与えられる会社に入れるのだという。「成功」という言葉がとげみたいに鋭くて、ああ若さってこんな感じだよなと思った。

ひとつの強い意志があって、それに沿って行動して結果を出すような人生を、もう私は生きていないような気がする。かつては、もう少し具体的に言えば出版社に入ることになっていたときまでは、そういう生き方をしていた。いや、そうしたくて、そう信じたくて、自分で一本の線を引こうとしていた。「政治思想を学んだ!社会から取りこぼされるような人たちを助けたい!だから、私は本を作って人に届けたい!」といった具合に。もちろん無理をしていたわけではないが、その線は、いくつかある点を動かせる範囲で動かして、一直線にして、定規で引いたようなものだった。ともかく、きっとその時点での私の就活は「成功」だったと、私は考えていた。

でも本当は自分がデザインしきれるほど人の人生は自由なものではなくて、私は就職が消滅するという決定的な形で思い知らされたけれど、たとえば上司とどうしても合わないとか仕事が忙しすぎるとかは誰でも想像できるところだし、あとは隣の人のしゃべりかたが本当に嫌いだとか職場に行くために使う電車がすぐに止まるとか、もしくは近しい人が遠くへ引っ越すとか病気になるとか死ぬとか、自分の努力ではどうにもできないようなことで、人間の心は折れてしまったりする。しかも、折れたあとでも人生は続いていく。そういうことを知ってしまうと、ある時点でのある行動の結果を「成功」だとはもう言えなくなる。

きらきらした目で夢を語ってくれる人に相対すると、私はたぶん「あきらめてしまった人」と思われてるんだろうな、とか考える。就職は「とりあえず」した部分が大きいし、仕事が生き甲斐とは死んでもいえない。やりがいもそこまで見出しているわけでもない。たぶんかつての私が今の私に会ったら、「灰色の目をした大人」とか言い出しそうだ。

でも「あきらめる」ことの効用というものはかならずあって、「楽になった」というとあまりに俗っぽいが、私は人生が思うほど思い通りにならないことを知ってから、自分の人生をきちんと丸ごと愛せるようになったし、他人の人生にもそれに等しく価値を認められるようになった。「成功」があるということは当然「失敗」が想定されているわけで、そういう方法でものごとを判断しなくなった。それは「とりあえず生活できればそれでいいや」というあきらめとそれは少し違う、「人生どうにもならないことのほうが多いけれど、それでも人生それ自体が愛すべきすばらしいもので、だから明日もどうにもならない人生を楽しく生きていこう」という心境だ。

それでも、信じているものがあって、そこに向かって走っている人は美しい。私は、あきらめることを知ってしまったけれど、それでも夢くらいある。ただ、途中で止まったり道を変えたりしなくちゃいけなくなるかもしれないけど、それを折り込んだ上でストレッチをしたり、軽く「こっちかな」という方角に走ったりしている。とりあえず、今はそんな感じで生きている。それはすごく心地がよい。