東芝LEDのCMに抱くつらさとそのカルテ

東芝のLEDライトのCMがすごく感動的だと話題になっていて、見てみたらものすごくへこんでしまったのだった。

これが去年ので
http://www.gizmodo.jp/sp/2012/01/ledcm.html

こっちが今年の。
http://news.livedoor.com/article/detail/7609670/

大筋はあまり変わらない。この商品はなんと寿命が10年もあるそうで、明かりを部屋に灯したその日からの10年を追っていく。去年は20代半ばごろの男性の部屋での10年を影絵で、今年は女の子が17歳の誕生日を迎えた時からの10年を実写で表現している。

どちらのCMでも、話はおそらく皆の想像通りに進む。そして、想像できる範囲からは絶対に外れない。

今年の、17歳の女の子版なら、受験勉強をして、合格して、バレンタインに好きな人にケーキを差し出して、振り袖を着て、就職をして、結婚をして、それで、電球を換えてから10年経った日に、また新しい明かりが点く。それはもちろん新しい命の象徴でもある。

私の好きな漫画のせりふに「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」というのがある(絶妙な場面で出る言葉だから、作品名は内緒)。そのとおりで、時の経過と一緒に人生が続いていくことは文句なしに素敵だと思う。であるわけなんだけど、この映像を120秒のあいだ見るのはつらかった。もっというと落ち込みすぎて布団にくるまって泣いた。

画面に映し出される彼らの人生があまりに悩みなく順調だから、というのはある。たとえば、2012年版の、結婚して奥さんが家でごはんを用意しているところに帰ってきたら、奥さんがぱたぱたと旦那のもとへ寄り、彼の持っていた鞄を受け取る…という場面。あれ、私が奥さんだったらもっと心の中でモヤモヤすると思う。でも、それだけを理由にこのつらさを説明することはできない。

この映像は商品広告だ。しかも、マスに届くたぐいの。となると、この中での「幸せ」の定義は、できるだけ多くの人が共有できるものでなければいけない。そうすると、なんだかんだ普通の人が普通に生きている人生を、幸せなものとして取り上げるのが一番よいのだろう。実際、家族が増えたりその中で悲喜こもごもあったりするのは、幸せなことだし。

で、たぶん私はその「普通」を上手になぞれない。

受験では第一志望校に落ちたし、よろしい形で恋愛を終結できなかったことがいくつもあるし、就職にはかなり決定的な形で失敗している。身近に不妊で苦しんだ人を知っていて、結婚したとしても子供を産めないかもしれないんじゃないかといつも思っている。

というか、このちょっとした失敗の積み重ねのせいで、次に何かするときもまた普通みたいにはできないんだろうなと、怯えているんだと思う。CMの中では約束されているハッピーエンドが、私の人生においてはものすごく不確定な存在として胸に迫る。「人並みになれない」という絶望感とか恐怖は、入学式とか受験とかの季節が来るたびに、もう解放されたはずなのに、襲いかかってくる。それは、仕事ができるとか、勉強ができるとか、そういう自己肯定感とは別の場所にある。みんなが、人間社会を構成する一員として当たり前にしてきたことが、自分にはうまくできない、という。いつまでも、大縄の回転に飛び込めないような感じ。

いや、たぶん、一定数の人がそう思っているんじゃないかという気がする。根拠はないけど、しかし太宰治が売れ続けていたりするところに、ちょっとその芽みたいなものが見えるように思う。あのCMを見てひそかに傷ついたり、古傷を痛めたりする人は、絶対に私だけじゃないはずだ。

私だったら、若い3人が起業しましたとか、小さな町に新しいお店ができましたとか、そういうCMを作りたいなあ。まだ予測しづらい10年間。幸せの定義がまだ決まりきっていない世界での10年間。そんな映像も、誰かの心に明かりは灯せるでしょう。

「幸せ」はたぶん平等には降りかかってこない。でも、時間は誰にでも平等に流れる。そこに救いがあってほしい。なんだか私にはまだそれくらいのことしかいえない。