感想:世界報道写真展

週末に見に行ってきた。昨年1年間に撮影された報道写真の、コンテスト受賞作の展示。世界各国の写真が展示されている。

http://syabi.com/contents/exhibition/index-1862.html

大賞は、スウェーデンのカメラマンが撮った、パレスチナガザ地区の写真。イスラエル軍の攻撃で死んだ二人のきょうだいを、伯父たちが葬儀のためにモスクに運んでいく。二人の伯父が、ひとりずつ、幼い遺体を胸に抱えて歩いている。それを正面から撮っている。

展示の入口に、この写真がある。最初のコーナーは、ガザ地区と、シリアのアレッポで撮られた写真が10数枚。どれも戦争に関わる写真だ。そこで写っているものは、私が日本で生活していく以上は出会わないような過酷な状況ばかりで、まったくなる必要はないのだろうけれど、申し訳ない気持ちになる。死体の手をとって自分の顔に当てる遺族、鉄条網をくぐって越境しようとする人びと、父親の棺に向かって泣く少女、こんな人たちが自分と同じ時間を生きている現実を信じたくない。

余計に信じたくないのは、どの写真が何の戦争をあらわすものなのか自分には判別できないことだ。意地の悪い言い方をすれば、来年や再来年に撮られるであろう戦争写真とも、見分けがつけられないだろう。どの写真も「似ている」のだ。そこには唐突な死があり、血が流れ、遺された者が悲しむ。その複合物はどれも「遠い国で起きている戦争の写真」にしか見えない。考えてみれば当然のことで、よほど詳しい人か当事者でもない限り、たとえば死体安置所の風景から地域を判断できる人なんかほとんどいないだろう。ただ、人間の感情が写り込んだ写真を見てしまった以上は私にも何がしかの感情が生まれるわけで、そのくせ誰が写っているどのような写真でも「戦争の写真」にしか認識できないことがはがゆい。写真に写る人たちは、固有の状況にいて固有の悲しみや悔しさを発露しているというのに。

とはいえ、これまでほとんど文字を通して断片的にしか知らなかった知識が血や肉を持って眼前に現れる体験は強烈だ。「紛争で人が死ぬのはよくあること」「戦争はいつもどこかであること」で済ませて、深く思いを馳せないことに勝手に決めてしまおうとする自分を、現実の側に引きずり出そうとする。であるから、「こんなにひどい状況が世界のどこかにはある」ということ知り、「似たような光景を前にも見たことがある」ということを思うことそのものにもきっと意味はあるのだと思う。

大賞を獲った写真の中で、死んだ甥を抱いて歩く男性はアディダスの服を着ていて、それがひどく印象に残っている。写真が視野に入って数秒以内にそのロゴマークに目が行って、それは自分が生きる現実と彼の生きる現実をつなぐ記号みたいに感じられた。やはりこの情景は本物なのだと思った。

世界のどこかで戦争や紛争が起こるたびに、それが写真に撮られるたびに、私は「前に見たのと似ている」写真を目にして、どうすればよいのかわからずにひとり戸惑うのだろう。そしていつも「戦争は悲しいことだから一刻も早く根絶されるべきだ」と思うのだろう。それ以上のことはいつも言えないにせよ。