宣伝と「夢を叶えること」について

ブログに書くのが遅くなりましたが、週刊朝日に書評を書く、という副業をはじめました。先週火曜発売の号(8月9日号)で『美容整形と<普通のわたし>』という本について書いています。ウェブでも読めます。
http://book.asahi.com/reviews/column/1580.html

このブログにも書いたと思うけれど、いつか文章を書く仕事がしたいとあちこちで言ってきたおかげですごくたくさんの人が「読んだよ」「おめでとう」と言ってくれて、ひたすらにうれしい気持ちで一週間が過ぎた。ウェブ上でライター仕事をしたことはあったけれど、やはり全国で売られる週刊誌にものを書くとなるとまったく話は別なようで、家族とか親戚の中ではちょっとした騒ぎになった。

書く仕事がしたい理由は結構明確にあって、それは、自分みたいな人間を自分の文章で救えるようになりたいからだ。「自分みたいな人間」というと曖昧模糊としているかもしれないけど、たとえばものすごい劣等感にまみれて周りと会話するのもきついとき、書かれた言葉(フレーズに…というよりは、文章全体とか、そこから透ける作者の人柄とか)に救われた経験が私にはあって、私も未来の世界の隅っこにいる誰かを助けたいなとずっと思っている。

「もの書きになりたい」とその業界の人なんかに話すと、「じゃあ何が得意なの」「何を書きたいの」と訊かれることが多い。たしかにキャリア形成のためにはジャンルくらい絞ったほうがいいのだろうけれど、特にこれ!という分野はなくて、幼稚園児が「有名人になりたい」とか言ってるのと同じレベルに見えるんだろうな、というか、実際そうなのかもしれないな、と思ってきた。

それで仕事が決まらないまま大学を出てしまって、後ろめたさをぬぐうようにアルバイトとか派遣社員をやって、結局正社員で働けるところを見つけて、でも会社ではほとんどものを書くような仕事はなくて、時間が経つのが怖かった。朝の5時に起きてなんか書き物をしてみて、でも最後までまとまらないからWordファイルがどんどん増えていって、しかもその書いたものを誰に渡せばいいのかもわからなくて、自分でもなにがなにやらわからないまま日々が過ぎていく、それが今年の冬から春のこと。会社で仕事していてほんとによかったと思う。やるべきことがあって、そこそこお金がもらえるとは、魂の救済以外の何であるというんだ。

それで、ここから努力をして今私はハッピーです夢の入口にいます、みたいなことが言いたいわけではない。

書評の仕事をいただいたのは本当に降って湧いたような話で、「週朝の書評欄に載るために毎日1冊は読書して感想文を書くぞ!」とかやったり、毎週、書評を投稿したりしたわけではない。「書評の仕事をする」という未来を想像したことすらなかった。でも、何かの偶然や巡り合わせで、そういうことになっている。

「目標のために計画を立てる」とか「努力は報われる」とかいうような言葉ははっきりした夢を持っている人にしか通用しない気がする。具体的なゴールを少しずつ設定していくのが夢を叶える際の定石なんだろうけど、その「夢」自体、多くの人にとってはつかみ所のないものなんじゃないかと思う。

今回の話は本当に幸運だった(会社の許可もすんなり取れたし)。だからといって今後していきたい仕事の方針があるわけでもないし、次の目標なんかもない。いまだに「未来の自分みたいな人を救いたい」という漠然とした夢みたいなものが遠くの上のほうにあって、私は「書評」という小さなはしごだけ持って、現実に突っ立っている。