胃腸の奴隷

 久しぶりにブログを更新してみようと思う。あんまり書くことないけど。

 どうして書くことがないかといえば、少しも知的な考えごとをしていないからで、その原因の大部分は、胃腸炎だ。最近だと農薬おじさんの冷凍食品農薬テロなんかがメジャーだと思うが、冬になると食中毒とかノロウイルスの話題が新聞紙面を賑わせる。病人は「下痢や嘔吐の症状を訴え」とか書かれるわけだが、そのひとりひとりの「下痢や嘔吐」がどれだけつらいか思い知らされることになった。消化器がきちんと働かない人間が尊厳を持ち続けるのは難しい。とにかく本当につらくて、はじめて会社を二日続けて病欠してしまったのだが、昼間に窓の外をベッドから眺めながら、自分の体調不良にだけ向き合うことのつらさたるや、というのは嘘で、つらさのあまり、この二日間の記憶はほとんど抜け落ちている。見舞いや電話やメールやLINEやAmazonプライム便、私を孤独にしない人たちと社会システムが私の尊厳を回復してくれた。すべてに感謝しかない。

 「感謝しかない」以上、深く考えることができない。たぶんそんな必要ないのだが、私は「いつかブログを書かなきゃ」と常に思っていて、そのためにひとまとまりの思考をしてみたりしている。それがすべて形をなさないで消えていく。牛乳にレモン汁を数滴こぼすと、何かが凝固する。その量が圧倒的に少なくて、ただ気持ち悪くにごった牛乳が残るような感じ。ある経験から得られる教訓はひとつではないし、そもそも経験というもの自体、他の経験とひとつながりだったりして、それをうまく「切り分ける」とか「まとめる」ということができなくなっている。すごく気持ち悪い。そもそも考えたいテーマがないから「切り分けたい」形がどこにもなくて、そうなるんだけど。

 家にある本をすべて捨てたいという衝動にとらわれている。サイン入りの文庫本(ブローティガンの『ビッグ・サーの南軍将軍』である)とレシピ本以外、すべて。おそらく近いうちに決行すると思う。紙への憎しみ、という初めての感情に気がついたのは年末にクラシックのコンサートを見に行ったときだ。曲の途中で楽譜をめくるバイオリン奏者を見てイライラした。タブレットにすればいいのに。片思いは自分でも気づかないうちに始まり、気づいた瞬間から加速していく。紙に対する憎悪も同じだった。あっという間に私の心を埋め、本(=紙の束)の所有なんか意味がない、やめるべきだという強迫観念が日々こだまする。本はいいものだとは思う。でも、バカみたいに文字ばかり印刷してあるし、ページをめくるのが面倒だし、かさばるし、一人暮らしの私の部屋にあるべきものとも思えなくなっている。

 一年くらい前に書いた日記を見たら、「自分の人生が、多くの一般的な人生に収斂していくように感じる」とあった。去年の冬といえば、就職をして、意気揚々と実家を出て一人暮らしを始めて、数ヶ月が過ぎたころである。自分の収入だけで自分の暮らしを営むことに慣れたとき、私は自分に「生活者」の一面を見つけた。「生活」は高尚な思考を使って続けられるものではない。日々、会社勤めをして、食べるものを作るか買うかして、衣服が汚れたら洗って、ちりの積もった床を拭いて、ようやく成立させられるものだ。決して家事が好きというわけではないが、私はそういう「生活」にまつわる行動をするのは好きだと思った。

 太宰治の文章に「あいつは文学者だと思っていたが金のために書く俗物だ」と揶揄されたことを受けて「私はもともと俗物ですよ」と返すものがあって、昔からそれが好きだ。まさか私は自分のことを太宰に匹敵するような文学者だとは微塵も考えていないが、一人暮らしを始めたばかりのころ、生活を送るのに夢中になっていて、それを叱られたのを思い出した。知的になりなさい、と。そういう生き方はもうできないのかもしれないなと思う。紀元前のアテネで哲学が発展したのは、市民の生活を奴隷が支えていたからだった。私も生活の奴隷なんだろう。
 
 今冬、人間としての誇りまで剥奪されるような病気(つっても胃腸炎だけど)をして、さらに私は肉体の奴隷であることも思い知らされたばかりで、そりゃあ知的なことを言えるはずないよなと思う。そういうわけだからブログを更新できませんでした。最近は「大金を稼ぎたい」とか「一人暮らしが寂しい」しか言葉を知らない、独身女の飼っているインコみたいになっている。いや飼い主そのものか。まあ知的であろうとしている時点で何か狂っている気もする。そういう感じの話を友人としたばかりだ。「社会に飼い慣らされた」とか言わないでほしいと思う。今が一番自由で、やっと自分の人生を生きている感じがするから。決まった。おわり。