舞台 海辺のカフカの感想(簡単)など

いきなり野菜の千切りが上達した。金曜日の朝食に大根サラダを作るべく、筒状の大根をまず縦半分に割り、そこから半月切り、重ねて千切りにしたら、なぜか手がいつもの1.5倍速で動き、幅もあきらかに細く揃った成果物がまな板に横たわっていた。普段、こんなれっきとした成長を感じることなんてないので、静かに感動してしまった。

詳しくは次の日記に書こうと思っているところだが、舞台「海辺のカフカ」を見た。村上春樹原作、蜷川幸雄演出。友達が行けなくなって、わざわざ私にチケットをくれた。その友達とは大学一年の語学のクラスで知り合ったのだが、確かに大学一年時の私はそこらじゅうで村上春樹の話をしていた。先日、呼ばれて行った飲み会にいた男の子が、たまたま音楽サークルの新歓で話したことのある人で、しかも双方顔や名前を覚えていた。おお、久しぶり、と言い合った次の瞬間「あのとき村上春樹ブローティガンの比喩について話していた子だよね?」と言われて心底死にたいと思った。というかチケットをくれた友達の好意は純粋にすごくうれしくて、こんなこと思うのは自意識過剰以外の何物でもないんだけど、他にも知り合ったばかりの人にアメリカ文学とか村上春樹の話をした記憶がいくらでも出てくるのがおそろしい。大学入学なんて人生を大きく変えるめったにないチャンスで、きっと誰もが「こうでありたい自分」みたいなものを抱えてぶつかり合うわけなのだから、誰でも恥ずかしい思い出を胸の奥にしまっているのだろうけれど。

私が『海辺のカフカ』を読んだのは15歳のときで、これまた恥ずかしすぎる思い出なのだが、通っていたヴィレッジヴァンガード吉祥寺店に「すべての15歳が読むべき本。」みたいなことが書いてあるPOPとともに平積みされていたものだから、それを鵜呑みにして、一生懸命読んだのだった。そのときはどんなに調べても「メタファー」という言葉の意味がうまくつかめなかった。

小説と同様に、劇もむずかしい、というか、日常生活の範囲内での行動とか理解とか論理を越えたもので、率直によくわからないと思った。15歳以来はじめてこの物語に触れる身としては、たとえばオイディプス王と同じ仕組みの話なんだなあとか、それまでに積まれた知識を使って物語を読み解こうとすることもできるわけだが、それに意味があるとも思えなかった。劇中の登場人物は、普通の世界では起こらないようなことを体験して、異界に飛び込んだりもするのだが、主人公の少年は現実の世界で生きていくことを選ぶ。それは、この劇がよくわからなかった自分にとってはなんとなく救いであるように感じた。わかんなくてもまあ日常が一番たいせつだしなあと思えたというか。身も蓋もない話だけど。

芸術に触れることの意味はいろいろあるけど、どんな見方をしたとしても見た芸術を通して自分の輪郭がくっきりしてくるのはおもしろいと思う。たとえば現代アートを見て「わからない」と思ったり、ぜんぜん感動できなかったりしたとしても、見てみるまでは自分がこれに感動するかどうか、好きか嫌いかすら知ることができないわけで。私が自分に興味を持ちすぎなのかもしれない。

それにしても、前半は少し笑いの起きるシーンがいくつかあったんだけど、あれって笑わせる意図があったんだろうか。私はわりとしっかり笑ってしまったが、みんな控えめに笑っていた気がする。全体的にシリアスな劇だったし。

ちょっと血なまぐさいシーンがあったために、夜中怖くなってしまって、「藤原竜也 演技」で検索して動画を2本見て、ちょっとモノマネの練習をしてから寝た。

なんか周辺的なことしか書いてないなあ。今度、もう少し詳しく感想をまとめようと思う。