食べログのない世界

ここのところよく、あるパラレルワールドを夢想する。

食べログのない世界、である。

つまり、食べログによって得たもの以上に、実は失ったものもあるような気がしてならないのである。それは端的に「知らない店に入るときめき」と表現されるのかもしれないが、しかしその言葉だけでは取りこぼすものが大きすぎる。

事例をいくつか挙げよう。

友人が年上の男の人に、お茶に誘われる。初デートである。いわく、「錦糸町にパリっぽい雰囲気のおしゃれなカフェがあるから行こうよ」(もちろん地名は仮のものですが、言われて受け取る印象がほぼ変わらない町を選びました)。報告を受けて5秒くらい声を出して笑ってしまった。次に私はインターネットを立ち上げ、検索窓に「錦糸町 パリ カフェ」と打ち込んでいた。検索結果のトップに現れるのは食べログである。「錦糸町にあるパリっぽいカフェ」は1軒しかないようで、しかも駅ビルの中に入っている店で、パリっぽいというか、クレープが名物料理であるようだった。気になる点数は3.14点。話を聞けばその男性の職場は都立大学、住まいは神奈川の奥地で、東京の港湾地に住み働く友人ともに、錦糸町には縁もゆかりもない。私の中で彼は「そういう人」という評価が下される。デート、してもいないのに。

あるいは、ある寒い休日。私は知人と、まったく知らない町を歩いていた。電車に乗っていて、昼時になったから、ぱっと降りてみたのである。互いにカレーが好きなので、できればカレー屋を見つけたいですねと話しながら、駅から延びる道を進む。
が、なにもないのだ。いや、ないわけではない。定食屋がちらほらある。が、入る決め手がないのだ。もとより私は、なにも決まっていない状況でぶらぶらして入る飲食店を見つけるのが得意ではない。カレーの店もない。続くのは寂れた商店街のみ。結局、これ以上行ったら「町」が終わってしまう、という境界上にある中華の店に入った。男性のひとり客が多く、店ではテレビがついていた。中華麺は、冷えた身体にじんわりあたたかかった。味は普通だった。私の舌は「普通の味」以上の食べ物をおいしいと感じるようにできている。だから、おいしかった。

小学校のころから、校外学習のときは事前学習をしろと言われて育った。旅行で史跡を見ると、その大切さが身にしみる。この城の主は非業の死を遂げたんだなとか、明治維新のときに官軍側にいたからそのまま市役所になってるんだなとか、見ただけでは知り得ない情報をもって実物に相対すると、まったく受ける印象が変わる。

でも、飲食店はどうだろう。たとえば、飲み会の詳細メールが送られてくる。「お店はここにしました」と、食べログへのリンクが貼られている。「TOP3000」。点数は3.78。高い。期待が高まる。あ、でも値段も高い。夜に5000〜6000円。万札をおろしてから行かなきゃ。とか。

検索結果に表示される前の瞬間までは知らなかった店のメニューを(値段込みで)覚えて、楽しみにして行く。なぜかこの行為に罪悪感がある。

点数表示が悪いのだろうか。「この町で、イタリアンで、ランチ1500円以内で、いちばんおいしい店」を調べて行くのって、何かこう、自然でない感じがするのだ。個人が採点したものだとしても、その平均が店の点としてトップにでかでかと表示されるのは暴力的ではないか。数字がついた瞬間、世界はフラットな舞台になる。誰にでもわかる評価基準ができたことにより、他店との比較検討が簡単に発生する。しかも食べログミシュランより厳しい。満点は5点で、しかも0.1点刻みで点数が変動するのだから。頻度も1年に一度なんてのんびりしたものではない。客が来るたびに、書き換えられる可能性があるのだ。

こんな文句はすべて、「食べ物の神聖性」や「出会いの純粋性」を希求する私の単なるわがままなのだろうか。いや、ちょっとの検索で外れくじを引かずにすむなら、そりゃあするに決まっている。人生でできる食事の回数は限られているから、できればその時々で最高のものを食べたい気持ちは私も同じである。というか、私も食べログをよく使う。カレー屋のランキングなどはブックマークしていて、いつか行こうと思っている店がいくらでもある。

いや、たぶん食べログが見せてくれないのは、こういう世界だ。

「なじみの店」というのがある人がいる。そういう人に、飲みに連れて行ってもらうのは楽しい。待ち合わせ場所からためらいなく歩き出し、細い通りに入り(なんでか「なじみの店」は小道にあることが多い)、小さな戸を引く。店員はこちらのことを知っている。座ってお酒を選んだあとは、黙っていても次々と料理が出る。そういえば店に入ってからメニューのたぐいを見ていない。料理も酒ももちろんおいしい。席は込んでいて、半分ほど知り合いのようだ。話題はころころ変わる。たまに料理人が口を挟んできたりする。終電の時間が近づいてくる。〆の炭水化物をとり終え、温かい茶と会計を頼むと、「おひとり様4000円でお願いします」。なにがいくらだったのか、さっぱりわからない。
ゲストである私は、待ち合わせ場所に着いたときから、全幅の安心感をもってその夜を過ごす。後日に別の友人がその店について「先輩に連れて行かれた」なんて話すのを聞けば、なにかひとつ秘密を共有した気分になる。そういう店は「連れて行かれ」ない限り行けない。連れて行ってくれた人とて、最初は連れて行かれたのだろうから。
そこに食べログ的なものは一切ない。そのあと店名で検索をかけると、「おいしかったが常連が多くていづらかった」との食べログレビューをちらほら見かけた。

そういえばかつて「地元のちょっとした名店」みたいな店(ラーメン屋みたいなところだから、高級店ではないし、酒もほとんど置かない)でアルバイトしていたころ、よくその店の食べログページを読んでいた。

「この店、アルバイトは顔で選んでる気がする」

私が食べログで読んだ中でもっとも有用なレビューである。