服装と自意識について 「攻め」のファッション、という鉄壁の防衛

ここ最近着ている服が信じられないほどださく、そのことを直視しないようにしてきたが、「変な格好(ちょっと丈の長いざっくりしたセーターに黒のスキニーデニムに見せかけたスパッツ。セーターの地は灰色だが両肘から下は蛍光オレンジ)をしている時に急に偉い人に会う」という事案が発生してから本気で己を恥じ、これはとうとうラディカルな改革が必要だというか急務であると感じ、家から15分で行ける繁華街こと池袋に走って行った。

そもそも私は人並み以上に服が好きで、おしゃれストリート系というのだろうか、いけてるデザイナーが作った文化系な服というのだろうか、ツモリチサトやらミルクフェドやらエックスガールやらコムデギャルソン(一着だけ持ってた)ばかり着ていた(そしてファストファッションの店で服を買うことなど一切なかった)はずなのにどうしてこんなことになったのだろうと記憶をたどればそこには貧困の歴史しか見いだせないわけであるが、しかし可処分所得をそれなりにコントロールできるようになった今現在、かつて好んでしていた格好をまたやろうと思うかといえば答えはノーなのであった。好みが変わったとか、会社勤めをしているとかいうのもあるが、それより、自意識が深く絡んでいるのを感じる。

というのも、おしゃれ服が好きだった頃は、自分の容姿が好きでなかったからである。好きでないのも当たり前というか、慢性的に太っていたし、特に顔がかわいいわけでもないしで、鏡を見ないで生活していた。ちなみに体型なんか変えようと思えば変えられるのだが、その事実自体が太っている人を苦しめていることを特筆したい。努力不足であることなど皆承知しているのだが、太っている人は食べるのが好きだし、もともと太りやすい体質であることが多いのだと思う。なかなか「やせたい」という意志がなにかしらの行動につながり、それが成果を出すまでに至らないのである。これがすべて自己責任なのはきついし簡単に自己嫌悪に陥ることができる。そこらへんのことは安野モヨコの『美人画報』シリーズに詳しい。ともかく私は自分の外見がかなり嫌いで、整形とかしようかなと思うくらいだった。「今できる努力で少しでもましにしよう」といったような気になれるはずもなく化粧も一切していなかった。

服は(まあ、太りすぎていたらサイズがないとか、似合わないとかあるけど)、自分の努力や持って生まれたものから独立して、自分の思い通りになる。組み合わせ方がよほどまずくなければ、おしゃれなアイテムは着るだけでおしゃれになれる。おしゃれブランドの服を着ると、他のおしゃれな人がかならず「あ、これどこそこのブランドだ」とわかる、というのも大きい。とりあえずの「おしゃれ印籠」を持ち歩いている気分になるからだ。もう少しお金があればきっと私は「See by Chloe」とか書いてあるTシャツばかり着ていたに違いない。ブランド名のかわりに私が多用していたのは「すごいかわいい柄」とか「ちょっと不思議だけどかわいい縫製」とか、ともかく一点突破できるおしゃれポイントだった。

この話はおしゃれストリートブランドだけに言えることではないと思う。たまたま私がそういうカルチャーの周辺のものが好きだったから、そういう人間だという見た目になりたかっただけで、もちろん別の系統でも同じようなことをしている人はたくさんいる。すぐに思いつくのは、相当かわいくなくて、髪をピンクや金や緑に染め、「リンキンパーク」っぽい格好をする女子など。いや「リンキンパーク」が具体的になにを指すとか言われても困るけど。ともかく黒とか赤とか、破れたTシャツとかジーンズとか、網タイツとかごついピアスに表象されるようななにかのこと。

ともかく私は自分に興味を持ちたくなかった。自分の身体に手をかけるのもいやだった。それで「服に語らせる」という選択をした。似合っていたかどうかは今さらわからないが(本当に自分の容姿が好きじゃなかったので、ほとんど写真に写ったことがない)、ともかく服装だけは「攻め」の姿勢でいたのである。

そんな自意識であるが、はたちあたりのころにたまたま重い病気に連続でかかって(胃腸炎とインフル)おそろしくやせたり、好きだった人が振り向いてくれそうになったりして(それまで一切もてなかったわけではないが、常にミスマッチだった。これも自己嫌悪の念を増殖させる)、雪解けの季節を迎えた(まあその後リバウンドして去年の今ごろあたり肥満体として生きていたわけですが…)。

そのときに、「普通の服を着てみる」ということをしたのだ。無地のカーディガンとか、スカートとか。服は主張しなかった。服を着た私、が、鏡には映っていた。そのときはすでに自分を鏡で見られる状態になっていたから、「あ、これはいいな」と感じた。自分によく似合っていた。

それで普通の服を着るようになり、そのうちおしゃれに対する執着も冷め、服を買わなくなり、なんと私はこの歳で、2年間ほど母が買ってきた服しか着ずに過ごしていたわけだが…。

久しぶりに服を選ぶにあたって、もちろん未だにかわいいなと思うからおしゃれブランドの店を見たりもするのだが、やっぱりあのときとは変わったなと思う。服を選ぶ主体がこちらにあるというのだろうか。「あっこれかわいい!試着!(あんまり鏡を見ない)まいっかかわいいから買う!」だったのが、「これかわいい!…この形はたぶん私に似合うし手持ちの服にも合うと思う。試着して本当に似合ったら買おうかな」くらいの熱量で、服を見ている。どんなにかわいくても、少し違和感があればもう買わない。

服に自分を合わせようとしすぎていたな、と思う。誰にでもプロポーションの欠点はある。私の場合は、とても足が短いとか、背も低いとか、肩幅が狭いとか、そもそも細くはないとか。これのせいでかわいい服を着てもなんだかいけてない雰囲気になることが多くて辟易していた。でもそれは着る服を選べば克服できるものだし、実は自分にもいくつか美質があり、際立たせることさえ可能なのだった。たとえば私は太ももに比べると腰回りが細いため、腰で履く膝丈のスカートにトップスを入れて着れば、コンプレックスを隠しつついいところを強調できるとか。「守り」の服装である。

それでふと思ったのだが、「攻め」のファッションはどこか「逃げ」を含んでいるのではないだろうか。もちろん誰もがそうだとは言わないが、直視したくない欠点が自分にある場合、無難でない格好をしてそこから目をそらす(させる)傾向はつとにあるように感じる。もちろんかつての私がそれなのだが。

ちなみに、たとえば太っていたり短足だったりしても似合う服はいくらでもある(腰がくびれている女らしい体型の人は、ぴったりめのワンピースなんか素敵だと思う)し、それを選んで着る人はなんだか信頼できるような気にさえなる。「守り」とはいえ攻めているというか。あれである、防御は最大の攻撃。

自分が着てきた服の歴史は、自分が自分を少しずつわかろうとしてきた歴史である。きっと誰にとっても。最近私は自分が好きだから、自分が着る服を選ぶのが楽しい。