2015年

年が明けた!!

いつもクリスマスあたりになると女性誌とかネットの記事で「1年間がんばった私へのごほうびジュエリー(バッグ、飯、スイーツビュッフェ、等)」というような特集が組まれる。それを見て、毎年思うことがある。というのも、「がんばった自分へのごほうび」という言い回しについて文句があるわけではなくて、本当に私は「ごほうび」に値するようながんばりを、一度もしたことがない。

「やることが多かった」みたいな年とか「つらくてたくさん泣いた」みたいな年はあったりするけど、それって「がんばり」とは別のものだからな。大学受験のころからずっと、自分の「がんばり」を評価できたことがない。最大瞬間風速がすごかったときもある(大学の授業でたくさん古典を読まされて毎週ディスカッションさせられたときとか、ピアノの発表会に向けた練習とか)。ただそれって歳末に宝石買っていいほどなの、というとまったくそんなことはなくて、日本円に換算したところで5千円が妥当なくらいである気がする。思うに、具体的に目標を立てて、その達成のために試行錯誤とか努力とかをしたことがないんだよな。

そのことを非常にコンプレックスに思っている。

三が日くらいまでは「今年の目標はカゼを引かないこと〜」と言いふらしていた私だが、普通に風邪を引き、というか12月18日くらいからなんとなく風邪っぽかったのが95パーセント治り、年末に買い物したらぶり返し、年末の休みを寝倒して治したような気がしていたのに、ちょっと実家やらなにやらに帰って疲れてしまったらぶり返し、今はのどの痛みに加えて激しい口内炎が出ているような状況で、目標もくそもない体たらくぶりだ。だからさっそく目標を修正しようと思う。と、こんなだらだらと前置きを書くほどでもなかったわけだが、今年はもう少し力を入れて行動してみようと思う。各方面。

新しいことをやろうというのも抱負のひとつである。てはじめに以前より気になっていた地域の児童の学習支援ボランティアの手伝いができないかと思って調べてみたけど、私の住んでいる区の募集ははじめから自分のような若い会社員が視界にないような要項(時間帯とか頻度とか)で、こんな自分でもたぶん国語の勉強とかでは誰かの役に立てるはず…!やりたい!という前向きな気持ちが、大道芸人からもらって4日目くらいの風船みたいに(意味のない比喩だ)しぼんでいくのが自分でわかって自分がいろいろといやになった。勝手に想定していた「ボランティアの受け手」たる児童なり生徒なりだったが、私の都合のいい時間にひまであるわけがないんだな。そういう自分の傲慢さもいやだし、条件が合わなさそうだとなると一気にやる気がなくなっていくあたりの無責任さも最低だと思った。

ところで悪口って言い始めると止まらなくなるものだけど、自分への悪口というのは基本的に自分しか傷つけないし、しかし加虐心が満たされるからキーボードを叩く手はノリノリになるしで気持ちがいいもんですね…。

とはいえせっかくなにか、ひとの役に立てそうなことをやろうと思ったのだから、たとえば定期的に活動ができないにしても、関わり方を考えるなり、情報に触れるなりしていきたい。これは決意表明だ。


最近読んだ本
河野裕子永田和宏『たとへば君』

すこし前にがんで亡くなった歌人の、おなじく歌人だった夫との相聞歌とかエッセイとか。

川上未映子『きみは赤ちゃん』

きみは赤ちゃん

きみは赤ちゃん

妊娠・育児エッセイ。

四半世紀生きてきたわけだが、結婚も妊娠も出産も育児も配偶者の老いも死も経験していないし、あまりにも普遍的な人間の営みだったりするものだからあまり大きく取り上げられるテーマでもないからよく知らないんだな私、と思った。

これはSurfaceで書いた日記です

Surfaceを買った!(以下、Surfaceとは関係ない日記です)

カフェでこの日記を書いているんだけど、流れる曲の9割以上がわかって、逆に居心地がよくない。男女の店員がキャッキャ言いながら選曲している。今流れているのはミスチルの「シーソーゲーム」だ。でもたぶん誰かのカバーで、気持ち悪い…。

2014年はそれほどなにかあったわけではないが、4月の健康診断で尿糖値が高いと言われたことによって次の検査結果がわかるまでの一か月間が本当につらかったことをよく覚えている。結局、糖尿病でもなんでもなかった。あとは弁当箱を都営荒川線の中に置き忘れ、さらに落とし物センターへの連絡も日々忘れ続けた結果、弁当作りをやめておにぎりと蒸し野菜しか作らなくなったことも印象深い。QOLはその程度では下がらないことがよくわかった。でも来年からまた弁当作り再開しようかな…。日々に張り合いがない。

25歳になったことも、まあ2014年に25歳になるなんてことは1989年に生まれた時点でわかっていたけど、なんだかついにこの日が来てしまったか、という感じで心に来るものがあった。私は去年の春〜夏頃が人生最悪に肌の調子が悪かったり、これまで一切していなかった運動を定期的にするようになったりしたのでさいわい「曲がり角」という実感はまだないのだが、人生の諸問題をまじめに考えるべきであろう年齢になってしまったことにショックを受けている。人生とは自分の力だけでどうにかなるものでは一切ないんだけど。

ちなみに「昔考えていた25歳はもっと大人だったのに…」みたいなことは思ったことないや。そこそこ大人だし…。


天皇誕生日の銀座・歩行者天国。午後2時台。冬至が近いと影が長くなるのだと今年はじめて知りました。

回想 11月

いろんなものを見た。

早稲田祭岡村靖幸のコンサートを見た。直接会ったこともない人の人間性に言及するのは評論家でもないから気が引けるけど、キラキラの王子様、クラスのヒーローじゃなくてもっと劣等感にまみれて生きてきたであろう人が、たぶん太ったんだと思うんだけど大きな体で踊りながらきざな歌を歌う姿は、スカっとして、最高にかっこよかった。劣等感由来の創作って劣等感のほかにも功名心とかひがみみたいな感情が入り込んでいるような気がしてあまり好きではないのだけれど、そういう感じがしなくて、100%、純粋にかっこよかった。しかし身体がでかいしスーツだし東洋人なもんだから、PSYっぽかった。一番有名な曲しか知らないけどPSYもいいなぁと思う。一般的な価値観ではかっこ悪い人とされるが、ウケを狙うでもなく、つまらない自意識を捨てて、あくまでかっこいいことをする姿には、心が浄化される思いがする。 

それで去年あたりに出た「愛はおしゃれじゃない」という曲を初めて聞くようになった。片思いソングなんだけど、歌詞がいい。電話もできないような、完全なる片思いの分際で「愛はおしゃれじゃない」とか言っていることにすべて集約されるんだけど、相手と親しく関わっていないがゆえに妄想(性的なことも、ドラマチックなことも)が増大されて、大それたことを言いまくっちゃっている感じが本当にいい。「どしゃ降りの雨の日も 飛ばされちゃいそうな風の日も 髪型どころじゃない 君に会いに行きたい」って、呼ばれてないし、会いに行ってないからね。会いに行きたいだけ、そう言ってみているだけ、というのが絶妙にイケてない。

コンサートは現役の早大生である妹に学内販売のチケットを取っておいてもらい、一緒に行った。妹が着ていたワンピースがかわいかったからほめたらGUで1990円とのことだったので、翌日ビックロに行ってまったく同じのを買った。姉妹が離れて住むとこんなアホなことしなきゃいけないんだ。

チューリヒ美術館展」に行った。多くの日本人と同じように、私も印象派やポスト印象派の絵が好きで、そういう企画展は毎年、東京のどこかであるので、ありがたい。しかし、ここ数年は「やっぱり私はモネが最高に好き」「ゴッホもいい」「シャガールもいい」「抽象画わかんない」「ダリは本当に嫌いだ。小難しい言葉ばかり使ってわけわからん映画批評を書く学生みたいで本当に嫌い」、という凝り固まった思考をさらになぞって凝固させるために絵を見ているような感じになっていて、悲しい。嫌いな人の嫌いな部分は言語化しないに限るし、それは絵を見るときも同じだ。

とはいえ、新しい絵を見に行くと、いつも新しい感動はある。私はゴッホの絵から、特にそういう感情をもらえることが多い。先日、教育テレビで「出生前診断について考える」といった番組をやっていて、ダウン症の人がインタビューに答えて「(中絶されずに)生まれてくれば、きれいなものを見られる。花とか空とか」みたいな内容を話していて、私にはすごく説得力ある意見だと思えた。そういう、陽光とか風のにおいみたいな世界の美しさは、何年か生きていればかならず誰でも感じられる瞬間があって、そのときって自分の生も祝福されているような気分になる。私は。ゴッホはそれを絵にしているんだろうな、という感じがする。大げさかもしれないけれど、そういう絵を見ると、人生観の大事なところをちょっとだけ共有できたような気がする。

モネは、すばらしい俳人の俳句を、いくらでも(というのは多作だから)鑑賞して、どれもすばらしいなあと思う感じだな。

明日から月が替わる。何があるわけでもないけど、こういう区切りはかなり好きなので、1週間とか1ヶ月とか1年とか、いろいろ単位があって、いいです。おわり

ダイレクトメール(最近のニュースとはそんなに関係ない)

こんなにダイレクトメールが迷惑なもの扱いされてるなんて知らなかったのでおどろいた。私はダイレクトメールが来るとめっちゃうれしい。

一人暮らしをはじめてそろそろ二年が過ぎようとしている。引っ越してきた当初はキッチンに突っ張り棒を渡すだの電球を好みの色のに替えるだのいくらでもやることがあって気が紛れたのだが、落ち着くとびっくりするくらい孤独だった。いや、けっこう家に人を呼んでごはんを食べたりはしていたんだけど、私の住み処を知っている人がほとんどいない。郵便物の送り先を変更してくれ、という届けは出したものの、当たり前だけど大学出て一年ちょい働いている市井の人間に来る手紙なんかない。すごい孤独だと思った。何か大きな存在から忘れられ、見捨てられているような感じというか。

だからDM来るとすっごくうれしい!

直接に関わる人以外に、自分を気にかけてくれる誰かがいるうれしさ。だから、毎日、帰ってきて郵便受けを開くのがすごく楽しみ。封筒があると胸が高鳴る。どんなにくだらないDMでもウキウキしてしまう。買い物に行ってメンバーズカードを作るとき、「DM送付を希望する」には迷わずチェック入れる。もちろん個人情報が変な扱われかたをしたら困るけど、それでも家にたくさん封書が来たらやっぱりうれしいと思うなあ。中身はあんま読まないけど。

そういえば最近、スチャダラパーの「サマージャム'95」という曲をよく聞いてるんだけど、まぁこれに限らずサザンとかの夏の歌ってよく「イイ女(海やオープンカーが似合う)」が出てきて、去年の夏くらいまでは漠然と27歳くらいの女性を想定してたんだけど、多分かれらは20くらいのギャルを想定して曲作ってんじゃないかなとふと直感した。間違ってはないだろう。

「ものは言いよう」みたいな考え方が苦手で、「今日が人生で一番若い日」って言われても、過ぎ去ったもっともっと若かった日のことを思ってしまうよ。

舞台 海辺のカフカの感想(簡単)など

いきなり野菜の千切りが上達した。金曜日の朝食に大根サラダを作るべく、筒状の大根をまず縦半分に割り、そこから半月切り、重ねて千切りにしたら、なぜか手がいつもの1.5倍速で動き、幅もあきらかに細く揃った成果物がまな板に横たわっていた。普段、こんなれっきとした成長を感じることなんてないので、静かに感動してしまった。

詳しくは次の日記に書こうと思っているところだが、舞台「海辺のカフカ」を見た。村上春樹原作、蜷川幸雄演出。友達が行けなくなって、わざわざ私にチケットをくれた。その友達とは大学一年の語学のクラスで知り合ったのだが、確かに大学一年時の私はそこらじゅうで村上春樹の話をしていた。先日、呼ばれて行った飲み会にいた男の子が、たまたま音楽サークルの新歓で話したことのある人で、しかも双方顔や名前を覚えていた。おお、久しぶり、と言い合った次の瞬間「あのとき村上春樹ブローティガンの比喩について話していた子だよね?」と言われて心底死にたいと思った。というかチケットをくれた友達の好意は純粋にすごくうれしくて、こんなこと思うのは自意識過剰以外の何物でもないんだけど、他にも知り合ったばかりの人にアメリカ文学とか村上春樹の話をした記憶がいくらでも出てくるのがおそろしい。大学入学なんて人生を大きく変えるめったにないチャンスで、きっと誰もが「こうでありたい自分」みたいなものを抱えてぶつかり合うわけなのだから、誰でも恥ずかしい思い出を胸の奥にしまっているのだろうけれど。

私が『海辺のカフカ』を読んだのは15歳のときで、これまた恥ずかしすぎる思い出なのだが、通っていたヴィレッジヴァンガード吉祥寺店に「すべての15歳が読むべき本。」みたいなことが書いてあるPOPとともに平積みされていたものだから、それを鵜呑みにして、一生懸命読んだのだった。そのときはどんなに調べても「メタファー」という言葉の意味がうまくつかめなかった。

小説と同様に、劇もむずかしい、というか、日常生活の範囲内での行動とか理解とか論理を越えたもので、率直によくわからないと思った。15歳以来はじめてこの物語に触れる身としては、たとえばオイディプス王と同じ仕組みの話なんだなあとか、それまでに積まれた知識を使って物語を読み解こうとすることもできるわけだが、それに意味があるとも思えなかった。劇中の登場人物は、普通の世界では起こらないようなことを体験して、異界に飛び込んだりもするのだが、主人公の少年は現実の世界で生きていくことを選ぶ。それは、この劇がよくわからなかった自分にとってはなんとなく救いであるように感じた。わかんなくてもまあ日常が一番たいせつだしなあと思えたというか。身も蓋もない話だけど。

芸術に触れることの意味はいろいろあるけど、どんな見方をしたとしても見た芸術を通して自分の輪郭がくっきりしてくるのはおもしろいと思う。たとえば現代アートを見て「わからない」と思ったり、ぜんぜん感動できなかったりしたとしても、見てみるまでは自分がこれに感動するかどうか、好きか嫌いかすら知ることができないわけで。私が自分に興味を持ちすぎなのかもしれない。

それにしても、前半は少し笑いの起きるシーンがいくつかあったんだけど、あれって笑わせる意図があったんだろうか。私はわりとしっかり笑ってしまったが、みんな控えめに笑っていた気がする。全体的にシリアスな劇だったし。

ちょっと血なまぐさいシーンがあったために、夜中怖くなってしまって、「藤原竜也 演技」で検索して動画を2本見て、ちょっとモノマネの練習をしてから寝た。

なんか周辺的なことしか書いてないなあ。今度、もう少し詳しく感想をまとめようと思う。

太宰、夏色


昨日は太宰治の命日だった。毎年、日付を覚えているので、一週間くらい前に思い出してそわそわするのだが、今年は当日になるまですっかり忘れていた。まあ、例年もそわそわするだけで特に黙祷とか墓参とかするわけではないんだけど。

なんかの本で読んで、よく飲み会とかで披露する話なんだけど、太宰ファン同士は仲良くなれないのだそうだ。『人間失格』なんかが顕著だと思うが、太宰は人の心にしのびこむのがうまい。読者だれもが「この人、自分にそっくり!」と思ってしまうのだと。ちなみに『星の王子様』も同じような効果があるそうだ。ともかく、作品名にちなんで桜桃忌と呼ばれる彼の命日は、ファンが彼の墓にさくらんぼを供えにくるのが一大行事みたいになっているのが、もちろん太宰ファンの私にも耐えられない。太宰のことアイドルみたいに扱っちゃって、ほんとにこの人たち太宰の苦しみとかわかってんの、勝手に共感とかしちゃってるだけじゃないの、とか、思ってしまうのである。

ちなみに、私は『富嶽八景』という小品が太宰作品の中ではもっとも好きだ。次点は『走れメロス』。これもそこかしこで言ったり書いたりしてきたことだが、これらを書いた頃の太宰は精神がすごく健康なので、作品もただひたすらにおもしろく、彼の文章のうまさをストレートに味わえるのがとてもいい。

数十年後、子育てを終えたあたりの私も、太宰の墓参りに行きそうでこわい。それでまだ鋭い気持ちを持った若者に嫌われるんだ。

6月の下旬になろうとしているが、夕方はまだまだ涼しい。近所の少し長い下り坂を自転車でゆっくり降りながら、ゆずの「夏色」を口ずさんだ。え、君を自転車の後ろに乗せて下り坂を走行だと…? 盗んだバイクで走り出すのと変わらない不良ソングだ。それにしてもゆずは「涙」を「泪」と表記するのがどうもいやだと思う。想う。

死んだら天国で太宰に逢いたい。

ジャスティス・フォーエバー

キックアスの続編の副題。こういう普遍的な概念に流行もクソもない気がするけど、やっぱり数年前まで「正義」ってブームだったよね。ダークナイトとかサンデル教授とか。映画はおもしろかった。見たあと一日間くらいいろいろ考えて「脱構築」という単語を思いついたけど、今となっては何を考えていたのか、誰が何を脱構築したのか思い出せない。

先週一週間、一万円で生活してみようと思って、実行していた。何をやっても楽しくないし、こういう無駄なことはもうやめようと思った。給料日が来るとすごく憂鬱になる。明細に書かれた数字を見つめていると、お金のことが心配になってくる。家賃。貯蓄。結婚。転職。住宅購入。子の教育費。老人ホーム。年金。お金に対する理解度が低いために、まったく並列していない、バラバラの心配事が次から次へと思い浮かんで、気が重くなる。郵便受けを見たら自分に宛てた白い封筒が入っていた。封筒には赤い文字で「資格の学校TAC」「資料請求ありがとうございます」と書かれている。そう、投資のセミナーに行ってみようと思って、なんかの懸賞に応募するとき「資料請求する」にチェックを入れたのだった。こういうの四月病っていうんだっけと一瞬考えたけど今は六月だった。中身は読まずに捨てた。

6月というのは評価が難しい月で、雨が多いというだけでマイナス500ポイントくらいしたいところなのだが、日照時間が長いのと、あじさいがそこらじゅうで咲いているのとで、プラス500は軽く越えてくるような気がする。私は花ならなんでも好きだが、あじさいはとくべつ美しいと思う。あじさいを好きだと思う気持ちをどこにぶつければいいかわからないくらいあじさいが好きだ。自分が生きていることは奇跡的なことだと思うが、地球上に花というものがあること、中でもあじさいという美しい種類が梅雨に咲くことは、ほんとうに「神様の大きな愛」みたいな語彙でしか説明できないんじゃないか。それくらいあじさいが好き。なんでこんなにきれいな花が、色が、あるんだろう。あと、なんで虫みたいに気持ち悪い生き物も、地球にはたくさんいるんだろう。

誰に強制されているわけでもないのにOLっぽい服を好んで買ってしまう。白の半袖ブラウスとかひざ丈のスカートとか。こんなのやだ、ほんとの私じゃないと思って、アメコミなんかがプリントされたTシャツをユニクロで4枚も買ってしまった。でも別にそういうのが私らしさかというと、全然違うと思う。秋にバーベキューしたとき、カジュアルな服をひとつも持っていないことに気がついた。カジュアルな服はあまり好きじゃないんだ。顔がカジュアルな感じだから、必要以上にカジュアルになる気がする。よくマーケティング関係の人が「消費者が言語化できていない欲望を形にする」みたいな話をしているけれど、今のところ私の欲望は池袋のルミネとかエソラによってむりやりに具現化されて、いつも違和感をおぼえながら服を着ている。でもほめられたりするんだよなあ。


ちなみに、さすがに私はここまでふわふわした人間ではない。半分くらい誇張とか脚色とか作り話です

おわり