「天才児の親」になることとアスペルガー症候群の利用について

午前8時台に千代田区内のスターバックスで茶を飲んでいたら、隣に30代後半〜40代とおぼしき女性の二人連れが座った。どちらもよそゆきの格好をしている。明らかに仕事仲間ではなさそうだったため、こんな時間から待ち合わせてお茶をするなんて、と驚いたが、すぐに互いの子供の見送りか何かの帰りなのだろうと見当がついた。

話題が親の介護から子供の勉強に移ると、キャッチボールのように進んでいた会話は、一人のスピーチへと変わった。息子の受験話だった。

現在小学五年生。中学受験を照準に、家庭教師を呼んで勉強を進めているようだ。「私と違って頭の回転が速い子だから」と前置きした上で、テストで能力に見合った点が取れないのだと話した。

いわく、「頭の回転が速すぎて、書くのが追いつかない」のだと。

算数の問題を与えると、問題を見たら一瞬で答えにたどりつき、それを解答用紙に書く。正しければ御の字だが、人間だから計算ミスもする。すると、経過式を書かないから、ゼロ点がつく。歴史の問題も「答えはわかっているのに、頭の中で知っていることがごちゃごちゃになっているから、違うことを書いてしまうみたい」。

「テストで字をきれいに書こうとすると、慣れていないから、すごく時間がかかる。それでいつも時間切れになって点が取れないの」。さらに、「うちの子、ちょっとアスペルガーだって医者に言われたのよ」。まったく否定的なニュアンスを伴っていないので新鮮に感じた。

よく言われる俗説に「天才の字は汚く、秀才の字は美しい」というものがある。「天才は頭に手が追いつかないから」ということらしい。彼女にとって「アスペルガー」とは、「字が汚い」と同様の、希望の光なのかもしれない。

アスペルガー症候群は、知的障害を伴わない発達障害と位置付けられる。こだわりが強く想像力に欠け、対人関係に困難を抱えることが多い。「障害」とも「強い個性」ともいわれるが、まだはっきりとは定義されていないようだ。しかし、その傾向を軽くもつ個人がからかいで「アスぺ」と呼ばれたりするように、アスペルガー症候群は「望ましくないもの」として語られることが大半なのではないだろうか。

ただ、その「強いこだわり」がよい結果を生むことがある。少し調べたら、アスペルガー症候群の16歳がゲームソフトを開発したとのニュースを見つけた。プログラミングの才能に気付いた家族が環境を整えて打ち込ませてやったところ、到底その年齢では作れないようなソフトを作り、コンクールで賞を取った。

わが子に才能があると信じているものの、現状なんの兆候も見つけられない親にとって、「アスペルガー気味」という診断は福音に聞こえるのではないだろうか。「天才」の希望を捨てず、いま抱えている欠陥の血統書もついてくる。それが生まれつきのものならば、親が努力して治せる範囲を超える。

彼女の息子は頭が良いのか悪いのか、アスペルガー症候群なのか否か、漏れ聞いた話だけでは判断できない。親は子供に期待してしまうものだろうし、何かしらの才能の片鱗を見つけたらかき集めてしまうのだろう。どんな事態でも前向きに解釈したくなる気持ちはよく理解できる。

私は自分を発達障害だと疑ったことがある。普通の子が普通にこなすことがあまりにできないので、病気とか障害だ、お前は最初から何かが欠けているのだ、と言ってほしかったのだ。

言い訳を見つけたい、「障害だと言ってほしい」気持ちは似ているものかもしれない。だが、それを通り越して、発達障害がポジティブなアピールにも使われるようになったらしい。たしかに物語として、筋は通っているのだ。ちょっと気持ちが悪い感じもするけれど。